プロトタイプ車が完成
S62.2 栃木工場でプロトタイプ車が完成した。三坂も早速、出かけることにした。「オレにも運転させろよ」アクセルをグーンと踏み込んだ。ターボ特有のレスポンスの悪さはまったく感じられない。アクセルとエンジンが一体になったような感じさえした。「こいつはいいぞ」それ以来、三坂の栃木工場通いが始まった。試走するのがやみつきになっていた。
「サスが柔らかすぎるんじゃないかな」
ある日、試走を終えて、前々から気になっていたことを言ってみた。「サスペンションがちょっと柔らかすぎるような気がする。もう少し堅くしたほうがいいんじゃないかな」180キロぐらいのスピードで飛ばすと、ローリングがかなり大きくなることが三坂にとって多少気がかりだったのだ。
「テストコースは路面の平滑度が一般道路と全然違うから、そう感じるだけなんです」「オレはそんなことないと思うな。4日後にまた来るから、それまでに直しておいてくれ」
4日後、三坂は約束通り栃木工場に来た。「直してくれたか?」「ええ、おっしゃる通り、サスペンションを堅めにしておきました」工場の技術者たちはニヤニヤ笑っていた。
走ってみた。前回までのフワフワした感じはなくなっていた。試走を終えた三坂に、ひとりの技術者が声をかけた。「申し訳ないんですが、今日はちょっと遅くまで残っていただきたいんです。夜中に、街を走ってもらいたいんですよ」
三坂はその夜、午前2時すぎにプロトタイプ車を一般公道で走らせた。カチンカチンで、背骨が痛くなった。「まいった、まいった。オレが悪かった。シロウトがこういうことを口に出しちゃあ、いかんな」三坂は素直に脱帽した。
320項目に及ぶ修正要求
S62.4 プロトタイプ車を日産テクニカルセンターに持ち込み、三坂がデザイナーや車体設計者たちを集めた。「キミたちが、このクルマを買うとしたら、どこか気に入らないところがないか。そういう目で徹底的にチェックしてほしい」1週間後、320項目に及ぶ修正要求が出てきた。しかも、そのうち60項目ほどはプレスの型を変えないと直らない。
三坂自身は、出て来てもせいぜい20か30項目ぐらいだろうと思っていたから、予想外の修正要求に慌てた。が「一切の妥協を排して最高級のクルマをつくろう」と言い続けてきた手前、頬かぶりするわけにはいかない。修正のための予算を追加申請することにした。
新型セド・グロ発表
S62.6 6月18日、日産はセドリック・グロリアのモデルチェンジを発表した。これに先立ち日産は、作曲家の坂本龍一ら3人をCMタレントに起用し「きっと、新しいビッグカーの時代が来る」と、ユーザーにある種の予感や期待を持たせるためのプレPRを展開しはじめた。
坂本らを起用した狙いについて安部宣伝部長は「それぞれの分野のオピニオンリーダーであり、クルマのターゲット層から神さまみたいに崇められている3人にお願いしたというわけです」と、語った。
「セド・グロは5ナンバー車だけでいいのではないか」
セドリック・グロリアの発売に先立ち、開発グループ内部では1つの論争が持ち上がった。「新3ナンバー車を開発することになった以上、セドリック・グロリアは5ナンバー車だけでいいのではないか」という議論が生じたのである。
実際、新3ナンバー車開発プロジェクトがもう少し早くスタートし、セドリック・グロリアのモデルチェンジまでに間に合っていたら、そうなっていたかもしれない。しかし、新3ナンバー車の開発が順調に進んでいるといっても、発売は63年1月がやっとである。もしセドリック・グロリアを5ナンバー車だけに絞ったら、新3ナンバー車発売までの6ヶ月間、日産は3ナンバー車なしでトヨタ・クラウンと戦わなければならない。それはしんどい話だった。
しかし、セドリック・グロリアの3ナンバー車をだしても、商品価値は新3ナンバー車発売までの半年間しか持たないかもしれない。それに、生産サイドの事情からすれば、車種はできるだけ絞りたいという意見も出された。議論は堂々巡りした。
トヨタの底力を見せつけられた
最終的に久米社長が決断を下し、セドリック・グロリアも3ナンバー車を発売することになった。ただし、半年後に新3ナンバー車を発売することを隠したままでセドリック・グロリアの3ナンバー車を売ったら、ユーザーに対する背反行為になる。そこでセドリック・グロリアの記者発表時に、久米社長が「63年1月に新3ナンバー車を発売する」とアナウンスした。
ディーラーの営業マンにもその点を周知徹底させ、必ずお客様に「もうすぐ新3ナンバー車が出ますが、それまでお待ちになりませんか」とアドバイスさせるようにした。それでも待てないという方には、もし新3ナンバー車に買い替える場合は、かなり有利な下取り条件を提示することにしたディーラーもあった。
こうしたやり方には、実は、クラウンユーザーの間に「もうすぐ新3ナンバー車がでるなら、それまで待ってから決めるか」といった買い控え気運を引き出そうという計算があった。三坂は本音を語る。「やはり新3ナンバー車を発売する前にクラウンにユーザーをさらわれてしまったら、苦しくなりますからね」
だが、結果からすれば、この作戦は裏目に出た。トヨタのほうが、新3ナンバー車が出る前に勝負をつけてしまえと大攻勢に転じ、その結果、62年9月から12月までの4ヶ月間に、3ナンバークラウンを3万台強も売りまくったからだ。三坂は、トヨタの底力を見せつけられた思いだった。
この4ヶ月間でトヨタはクラウンを売りまくり、63年1月には世界最量産車種のカローラすら抜いてしまったという”奇跡”を起こした。その一方、同じ時期のセドリック・グロリアの販売台数はクラウンの半分以下であった。対クラウン作戦に関する限り、新3ナンバー車の発売予告は完全にミステークであった。
しかし、セドリック・グロリアの人気が低かったわけではない。むしろ「58年型に比べて見違えるほど良くなった」と高く評価されていた。