公開日:2004年8月16日
最終更新日:2016年5月5日

「やっぱり走りだ」

開発ストーリー(5)

Development Story

カテゴリー : 基本資料

Y31シーマに適用

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新3ナンバー車の開発を提案

S61.4 4 月21日、重苦しい空気の中で経営会議が開かれ、中村専務が新3ナンバー専用車の開発を提案した。経営会議とは会長、社長、副社長5人、専務3人からなる最高意思決定のための会議である。提案の具体的内容は、もちろん三坂ら反乱部隊が作成したもので、3ナンバー専用車の生産台数は月産2500台、投資額は設計計画費5.5億円、製造計画費18億円で、総投資額は23.8億円が見込まれ、販売予定価格は470万円とされた。この提案は、それまでの紆余曲折が何だったのかと思えるほどのあっけなさで、全員の承認が得られた。

円高によって輸出競争力が落ちてきたため、輸出に依存せずにやっていけるよう商品構成も考え直すべきだという認識に全員が立っていた。久米社長はいう。「それに、三坂クンたちは何度も何度もしつこく提案してきた。よほど自信があるからだろうと思った。一発でOKしたんですよ」

ついに、新3ナンバー車計画が水面上に浮上した。開発コードは「FEP」と命名された。予算も初めてつき、セドリック・グロリア開発費を水増し請求して、それを流用するといった苦しいやりくりを続ける必要はもうなくなった。三坂をはじめ、阿波や遠藤、若林らの顔にも、久しぶりに明るさが戻ってきた。

開発期間は2年以内

新3ナンバー車は、デザインから新たに考え出していかなければならなかったが、経営会議で、開発期間は2年以内と厳しい条件をつけていた。だからといって「開発期間が短かったから」と、あとで泣きごとを言わなければならないような中途半端なクルマづくりは、到底許されることではなかった。
新3ナンバー車は、セドリック・グロリアシリーズの最上位車種として位置づけられ、まさしく日産の顔であり、日産再生のシンボルでもあるからだ。
幸い、若林は60年暮れごろから新3ナンバー車の実物大のイメージスケッチを何枚か描き上げていた。彼自身の頭の中では、すでに新3ナンバー車のスタイルが具体的な形をとりかけていた。

ふつう、デザイン期間は10ヶ月かかる。しかし、そんな悠長なやり方はしていられなかった。デザインに限らず、すべての開発工程を短縮していかなければならなかった。だが、物理的に短縮不可能な行程もあり、結局、その飛ばっちりを受けるのはデザイン部門だった。
「1ヶ月でやってほしい」ムリを承知で、三坂は若林に指示を出した。「そんなムチャな。三坂さんはシロウトだから、デザインなんかチョコチョコっと簡単にやれると思っているかもしれないけど、そんなものじゃない。今度の場合、すでにボクの頭の中ではイメージができあがっているから、通常よりはうんと短くできると思うけど、それでも3ヶ月は必要ですよ。それ以下では、絶対にできない」「やっぱり1ヶ月じゃムリか。でも、3ヶ月はやれない。中をとって2ヶ月じゃどうか」「三坂さんも強引ですね。ま、何とかやってみるけど、そのかわりモデルは1つだけ。ボクの自由につくらせてほしい」
誰にも口を挟ませない、という約束を三坂との間で取りつけた。

阿波「おっ、ナマズみたいだな」

S61.6 約2ヶ月後、クレイモデルが完成した。「おっ、ナマズみたいだな」多少、ひょうきんなところもある阿波が、素っ頓狂な声を出した。阿波に限らず、概して営業部門での評価は低かった。斉藤取締役も「1950年代のクルマのようなデザインで本当に売れるのか」と心配した。だが、つくり直しをさせる時間はまったくない。フロントグリルの一部を手直しさせるのが精一杯だった。

Y31シーマ 最初の原寸粘土モデル
Y31シーマの最初の原寸粘土モデル。ユニークなヘッドランプがすでに意図されている。グリルまわりにボディー金属面を残した小型。背後は、セドリック・ハードトップのグレイの一案(MotorFan 1988.4より)(画像提供者:ひろさん)
Y31シーマ 初期クレイ
Y31シーマの初期クレイ。クォーターピラーからオペラウィンドウを外した痕跡の処理がいまいち(MotorFan 1988.4より)(画像提供者:ひろさん)
Y31シーマ 中期粘土モデル
Y31シーマの中期粘土モデル。グリルなどの細部を除いて外形は最終化している(MotorFan 1988.4より)(画像提供者:ひろさん)
Y31シーマ 最終モデル
Y31シーマの最終モデル。この段階でもグリルは、ヘッドランプ上端と同線の一体感のあるもの。その後、おそらく販売部門の要望でデザイナーは心ならずも(?)通俗的2分割グリルを採用したのだろう(MotorFan 1988.4より)(画像提供者:ひろさん)

三坂「よし、これで行くぞ」

S61.7 三坂は、自分には良さがわからなくても、これはきっと素晴らしいデザインに違いない、と自分で自分に言い聞かせ、経営トップの承認をとりつけるため、経営会議を招集してもらった。
このころには「役員はデザインに口出ししない」という新しい不文律が定着しつつあり、さしたる異論もなく承認された。ただちに線図に移り、7月中旬、線図が車体設計部に引き渡され、設計作業がスタートした。

そのころ、上期での決算で日産が営業赤字を出すことが必至の状況になっていた。三坂が園田から呼ばれ「開発計画を半年早められないか」と打診を受けていた。作業を急がねばならなかった。

開発グループはさらにピッチを上げることにしたが、かといって中途半端なクルマに仕上がってしまったら、かえって命取りになる。国産初の本格的3ナンバー車ということで、カージャーナリストやユーザーの注目を集めることは必至であり、そこで悪い評判をとってしまったら、日産の長期低落傾向にさらに拍車をかけることになる。

三坂「本当に、これでいいのか」

三坂は自問自答を繰り返し、朝まで考え込んでしまうことが多くなった。「やっぱり走りだ」
開発主担の遠藤を呼んだ。遠藤はS58年から次期型セドリック・グロリアの開発主担としてクルマをまとめていた。彼は、S60年夏に3ナンバー車開発構想が持ち上がったときから、一貫して反乱部隊の技術将校として三坂ら阿波とともに3ナンバー車構想を推進してきた。シンの強い技術者である。

彼はいう。「三坂さんはシロウトですから、夢みたいなことだけ言っていればいい。とにかく、のせ方がすごくうまいんです。三坂さんが『オレはこういう機能が欲しい』と言ってきて、ボクらが『そんな機能は必要ないし、技術的にも困難だ』と、技術上の問題点を説明しようとすると『オレは技術屋じゃないから、そんな話聞いてもわからん。だけど、ニーズがあることは確かだし、キミら”技術の日産”の優秀なエンジニアなんだから、できないことはないとオレは信じているよ』と、言いたいことだけ言って、さっさと行っちゃうんです。仕方なく、やってもダメだったら三坂さんも諦めてくれるだろう、とやってみると案外できちゃうんですね」

このときもそうだった。「V6ツインカムの3リッターエンジンにターボをつけたいんだけど、どうかね」と三坂が遠藤にアイデアをぶつけてきたのだ。「なぜですか」「走りだよ、走り」「走りですか・・・」思わず遠藤は笑ってしまった。「走りのことなら、ターボにしなくても大丈夫なんです。200馬力もありますからね」「だって、ソアラはターボ付きで230馬力も出してるじゃないか」三坂らはクラウンよりソアラの方を強烈に意識していた。

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